田宮模型の創業者は、私の父・田宮義雄です。私は大学卒業と同時に父の会社・田宮商事を手伝うようになりました。ハレの日である大学卒業式3日前の日に、母が急性骨髄性白血病、で51歳の若さで生涯を終えたのです。私の下にいる5人の弟たちを母に代わって一人前に育てることが、亡き母へのせめてもの恩返しだとの決意からでした。
しかし、時代の流れで、入社して2年後の1960年には、海外から精密なプラモデルが輸入されはじめ、木製模型は一気に過去のものになってしまったのです。
多くの模型メーカーが姿を消す中で、今日まで「タミヤ」という会社と私自身が生き残れたのは、幸運に恵まれたからに他なりません。その幸運の第一は、「人」に恵まれたこと。それにつきます。20代から模型製造にのめり込み、30代、40代、50代、60代と模型一筋に生きてきました。模型に取りつかれた男に温かい援助の手を差し伸べて下さった人、人、人――――。感謝してもしきれません。
もともと模型好きの私でしたが、仕事をしながら考えるのは、模型づくりの楽しさとは何だろう?模型は生活必需品ではないが、模型が社会の中で、どんな役割をはたしているのだろう?という疑問でした。その答えを見い出したのは、海外で実物取材するようになってからでした。取材先の軍事博物館館長、飛行機雑誌の編集長、第二次世界大戦の将軍や激戦を生き抜いた元将校たちの話を聞くことで、戦車・飛行機・艦船などの背景に様々な「ドラマ」・「夢」・「歴史」が秘められていることを知ったのです。こうした経験から、模型づくりの楽しさとは実物の背景にある物語をそれぞれの人が新たに読み解くことにあると、考えるようになりました。また、海外に行くたびに、その人々の模型に対する考えの広さと深さを感じたものです。同時に、日本では模型への理解がまだまだ浅いことも痛感しました。
私は「作る楽しさ」だけでなく、実物への思いを模型に投影するというロマンを日本でも普及させたいと思うようになり、それを目指してやってきました。
私が模型屋になって63年が経ち、日本でも模型ファンが増え、情熱・愛情は今や世界一と言っても過言ではないと思います。実物取材によって作り出されたモデルを組み立てながら、フェラーリの「物語」を編み上げたり、ヨーロッパ戦線で連合軍を手こずらせたドイツ軍のタイガー戦車を自分の机の上に置いて、遠い時間に思いを馳せることも出来ます。また、ミニ四駆は、テレビゲーム世代の現代っ子たちに工具を使うことの楽しさ、工夫を凝らしながら物づくりの楽しさを知ってもらえたのではないかと、自負しています。
今私は、模型を通じて老若男女が夢とロマンを分かち合う光景を見、体感しています。
父・田宮義雄からのバトンを受け、次代にバトンタッチできると思っていた矢先、社長(娘婿)が病に倒れ、先行きが見えなくなった頃に、この社団の理事長就任の依頼を何度も何度も受けました。当然断りましたが、治療の甲斐もなく他界した社長の葬儀すべてを終え、私が会長と社長を兼任することになった時に、再度理事長就任の話がありました。
私自身を奮い立たせるためにもこれはやらねばと思い、「やるよ。」と快諾したのです。就任の条件は、自分も一緒に汗をかく。ということでした。
齢(よわい)80半ばを迎えた私が思うのは、自社「タミヤ」の繁栄だけでなく、私が生まれ育ったこの静岡の地の各種産業はじめ、すべての人たちが潤い、笑顔の絶えない生活が送れるようになることです。「人」」によって【世界のタミヤ】になったのです。皆さん、共に汗をかいて熱い思いでいきましょう。